切断〜復帰経過:その3ー脚を失い、ふたたび義足で立ち上がるまでの記録。

 

年末も迫った頃、主治医から治療方針の説明を受けた。

現状では感染の程度を示す数値が高いまま下がらず感染症のリスクが高いこと、左脚の残った断端は短く、また断端の表面は植皮で義足を履く条件としては厳しいこと。

一方、残った左脚を股関節離断にした場合、断端を強い皮膚で覆うことができるが、座位の安定性は悪くなること、振り出す脚がなくなることから、義足を実用的に使いこなすのは難しいこと。

左脚を残すか、落とすかという選択だった。

どちらも厳しい条件だったが、両方の説明を受けて、先生は股関節離断にした方がよいと判断しているように感じた。

しかしどちらがいいとは言わず、本人に選ばせようとしていると思った。

股関節離断の場合、義足を実用的に使いこなすのは難しいということだったが、「難しい」であって「不可能」ではない。
当時義足の知識はなかったが履ける義足がある以上、なんとかなる、なんとかすると思った。

迷いはなかった。
先生の判断を信じようと思い、即答していた。

「残すメリットがわかりません。落としてください」

こうして、残った大腿を切断し、股関節離断にすることが決まった。
自分で選んだこととして、納得していた。


また、右脚について。
背中から皮膚を採り、右脚に植皮する手術をする。
術後10日程度は、熱傷ベッドという特殊なベッドを使い、動くことはできないと説明を受けた。

この時初めて、治療に不安を感じた。
この頃には、たまに集中治療室の外に出してもらうこともあり、それが何よりの気分転換になっていた。
それが10日間、外に出ることはおろか、全く動けなくなる。

取りうるベストな治療法なのだと納得していたが、耐えられるか自信がなかった。
それでも耐えるしかないと、受け容れた。
これも、自分で選んだこととして、納得していた。

こうして年内に左脚の股関節離断と右脚の植皮、2度の手術をすることが決まった。

股関節離断の手術の日。
それまでの手術では意識がなかったので、意識がある状態で手術を迎えるのは初めてだった。
見送る家族に不安を抱かせたくなくて、ストレッチャーで運ばれながら拳を突き上げて、手術室に向かった。
精一杯の強がりだった。

手術台に寝かされ、測った体重は44kg。
事故に遭う前は55kgだったので、10kg以上体重が落ちていた。
脚一本分の重みなんだな、と思った。

麻酔を打たれすぐに眠りに落ち、目が覚めたら終わっていた。
意識が戻って、家族には「第一段階、クリア」と言った。
どこまで強がってたんだろうと思う。

右脚の植皮の手術の前に、年末の忙しい合間を縫って、職場の部長3人がお見舞いにきてくれた。
3人とも人間的に大好きで尊敬する上司だった。
まだどんな形で戻れるかはわからなかったが、「現場に戻りたい」と告げた。

現場で働くことに、やりがいを感じていたから。
また、早く戻らなくてはと焦りもあったと思う。

その時上司が掛けてくれた言葉が忘れられない。
「これから何十年も続くSE人生からしたら、大した時間じゃない。ちゃんと治して元気に戻ってきてください」

涙が出た。
この言葉にどれだけ救われたか。

そして年末もう一度、右脚植皮の手術を受けた。
説明を受けてはいたが、術後は想像を遥かに超える背中の痛みだった。
体を少しでも動かすと背中の皮膚が動き、それだけで激痛が走った。
全く動けなかった。

年末最後、リハビリも始まった。
全く動ける状態ではなかったので、腕だけでPTさんの腕を押し返すだけのものだったが、それだけでも前進だと思っていた。

そして迎えた2008年の終わり。
毎年、友達のバーでカウントダウンが恒例だったが、この年は集中治療室のベッドの上で全く動けず、新年を迎えた。

この状況は何なんだろうなと思いながら、来年は必ずみんなのところに戻って、一緒に新年を迎えるんだと心に決めた。

(続く)

切断〜復帰経過:まとめ

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コメント

  1. MC より:

    今回の記事を読んで、自分と共通することも、自分より大変だっただろうなと思うこともありました。
    そういう状況の中で、職場の人が戻ってこいと言ってくれるのは救いになりますよね。いい人たちですね。