切断~復帰経過:その4ー脚を失い、ふたたび義足で立ち上がるまでの記録。

 
年が明け、2009年。
 
植皮のための皮膚を採った背中の痛みで全く動けない状態。

食事の時に少し体を起こすぐらいだったが、それだけでも激痛が走った。

人生で一番長い10日間だった。この頃の記憶は痛み以外ほとんどない。
じっとしていてもひどい痛みだったが、中でも背中のガーゼ交換の処置では過呼吸を起こすほどの痛みだった。
 
苦しい時期だったが、股関節離断にした左脚、皮膚を移植された側の右脚の状態は落ち着いてきて、背中の手術から10日ほど経った頃、一般病棟に移れることになった。
 
集中治療室で過ごした時間はちょうど一ヶ月。
 
ベッドの上から全く動けず、面会も1日1時間だけ1人ずつが基本。
入院以来、福岡に住んでいた母親と東京に住んでいた妹は大阪の自分の部屋に移り、毎日面会時間いっぱい一緒にいてくれた。
父親と兄も仕事の合間を縫ってきてくれていた。
 
一番厳しく、苦しかった時期を支えてくれたのは家族だった。
 
 

そして、一般病棟に移った。
多少動けるようにはなっていたが背中の痛みは引かないまま。
また、左脚の切断した部分の傷口が塞がらず、毎日傷口を洗浄する処置を受けていた。

この頃は、毎朝早く目が覚めてしまい、気分が落ち込んでいた。
世の中が自分と自分以外に分かれてしまったような感覚。
テレビを見ても自分には関係ない、別の世界の話のように感じていた。

一般病棟に移ってパソコンを持ち込めるようになり、義足のことを調べ始めた。
しかし、下腿義足、大腿義足の情報はいくつかあったが、義足の中でも珍しい股義足は情報がほとんどなかった。あっても、教科書的な説明がほとんど。
どんな生活を送っているか情報はなく、想像もつかなかった。
 
股義足は、腰にソケットを巻きつけて履く形。
脚は前後にしか動かず、横に開くことは構造上できない。
また、自分の体で降りだすことができないため、動作にはかなりの制約が出る、ということはわかった。
ただ、股義足というものが存在する以上、歩けないことはないだろう、と思っていた。

そんな中、さらに情報を探し続けていたところ、あるホームページを見つけた。

「股義足スプリンターの軌跡」(今では閉鎖)

実用的に歩くことは難しいと言われている中、かつて股義足で走っていた人がいた。
走ることができるのなら、歩くことは絶対できると確信した。
一筋の光が見えた。

この頃からかも知れない。
「自分で自分の限界を作ることはしない」
「物理的に不可能なこと以外はあきらめない」
と決めたのは。

また、面会ができるようになり、友達が面会に来てくれた。
いつも遊んでいたメンバーが大人数で。
待ち望んでいたみんなとの再会。
この時が来ることが苦しい時間を乗り越える力になっていた。
時間にしてみれば、会ってなかった時間は一ヶ月半程度。
それでも、ひどく久しぶりに感じた。

その時の自分の状態は、左脚はなくなり、右脚のギブスは着けたままで車椅子。
一ヶ月半前からは想像もつかない、変わってしまった姿。
それでも、みんな変わらず接してくれた。
病院一階のドトールで、迷惑だっただろうな…と思うほど笑い、騒いでいた。

毎朝の気分の落ち込みは続いていたが、この時間は現実と繋がっていると感じることができた。

(続く)

切断〜復帰経過:まとめ