2008年12月8日。
仕事終わりに友達とご飯に行き、話し込んで気が付けばもう終電の時間。
もう日付は変わっていた。
そこから先の記憶は、ない。
次の記憶は知らない天井、身体中の激痛、痛々しく心配な面持ちで自分の顔を覗き込む家族の顔。
どれだけ時間が経ったのかもわからない。
まず、当時離れて暮らしていた家族全員がそろって、周りを囲まれている理由がわからなかった。
まず出た言葉は、
「なんでみんなおるん?」だった。
父親に事情を聞き、電車事故に遭い集中治療室にいること、身体中の痛みの理由は把握した。
そして、自分の身体の違和感にも気付き始めていた。
右脚は上半分を切ったギブスをはめられ、全く動かせない状態。
動かそうとすると、止められた。
右脚は車輪に巻き込まれ、膝上から足首までズタズタになっていた。
頭は丸刈りにされていた。
外傷性くも膜下出血で、頭を開いて手術をしたらしい。
そして左脚。
ほんの少し、付け根あたりの感覚はあるが、その先のあるべきところに感覚がない。
家族も医者もまだ何も言わないが、気付いていた。
左脚はないと。
あえて確認はしなかった。
聞くのが怖かったのではなく、聞くまでもないと思っていた。
今思えば、これが余計な気を遣わせてしまった。
後で聞くと、ショックを受けることを心配し、時が来るまで気付かないように、気を遣っていたらしい。
数日経って、医者から左脚は大腿から切断したことを告げられた。
その時「ああ、やっぱないんや」というのが感想だった。
自分ではわかっていたので、改めて事実として認識しただけだった。
後に知ることになる運ばれた時の診断名は、
・左脚大腿部開放骨折
・右脚膝上〜足首にかけてデグロービング損傷
・外傷性くも膜下出血
だった。(注:心臓悪い方は調べないでください)
意識が戻っていない間、左脚切断&右脚再建、頭のくも膜下出血と2度の手術を受けていた。
それでも、まだ事態の本当の深刻さを理解していなかった。
「早く家に帰りたい。仕事に行きたい」と言っていた。
しかし、次第に今でも自分は生死に関わる予断を許さない状況で、仕事に行くどころかベッドから一歩も動けないことを理解し始めた。
その時自分は30歳。
同時に思ったのは、脚を失っても、自分には集中治療室の限られた面会時間いっぱい一緒にいてくれる家族がいる。
職場の人たちも、会えないながらみんな来て頂いたとも聞いた。
その時家族に言った言葉。
「事故に遭ったことは不運だったけど、不幸じゃないよ」
本心からそう思っていたし、今でもそう思っている。
義足のことも全然知らなくて、どんな形になるかまるでわからなかったけど、脚一本なくなったぐらいで縮こまって生きていくなんて、自分自身納得できなかった。
仕事はデスクワークなので這ってでも職場にいけるようになれば仕事はできる。
多くの友達がいる。
まだ独身だし、きっとそのうち結婚もする。
絶対戻る。
職場にも、みんなのところにも。
ベッドの上から一歩も動けず、身体中の激痛、発熱も続いていて頭もはっきりしていなかった。
それでも、そう決めた。
(続く)
切断〜復帰経過:まとめ
←まえがき その2:集中治療室→
コメント
すごい重傷だったんですね。ホームから落ちた?というところから記憶がないとは。
そんな大変な経験から、今のように復活している野田さんの強さってハンパないものがありますね。
死にかけましたね。
電車にひかれて、これぐらいで済んだのは運が良かったんだと思います。
自分は事故で、気付いたら脚がなかったパターンですが、病気や先天性の場合にはまた違った大変さがあると想像するので、どちらが大変かなんて比べられないと思います。