切断〜復帰経過:その2ー脚を失い、ふたたび義足で立ち上がるまでの記録。

ベッドから一歩も動けず一週間ほど経った頃、気晴らしも必要という気遣いからか、初めて集中治療室から外に出してくれた。

冬の冷たい空気が気持ちよく、懐かしく感じた。
集中治療室で断絶された環境の中、久しぶりに外の世界を感じることができた。

やっと集中治療室から出て電話が使えるので、一番にあの夜一緒にいた友達に連絡したかった。
自分から連絡がないのを心配して、事故の翌日送ってきてくれたメールに父親が返信していて、事故に遭ったことは伝わっていた。

きっと深く心を痛めてる。
自分を責めているかも知れない。
心配かけてしまったことを謝りたかった。

「ごめん!心配かけて!」と電話した。

大丈夫だと安心してもらいたかったし、同じように心配してる友達にも伝えて欲しかった。

職場のメンバーにも連絡した。
途中になってしまった仕事のことも気がかりだった。

周りの人に状況を伝えることはできたが、状態は変わっていなかった。

右脚は毎日のように感染して壊死した組織を削り取るデブリードマンという厳しい処置を受けていて、そのたび強烈な麻酔を打たれていた。
左脚も感染が治まらず、時折短い断端がビクッと激しい痙攣に襲われていた。
外傷と感染症からくる高熱と、処置の際の強力な麻酔で現実感がないような感覚が続いていた。
幻肢痛も感じ始め、正体のわからない痛みに悩まされた。
痛みと時間の感覚が狂っていたため、眠れない夜が続いた。

自分では冷静なつもりだったが、退院後、看護師さんに「あの頃夜泣いてたよ」と聞いた。
心配かけないように振る舞っていたものの、肉体的にも精神的にもきつい時期で、家族や看護師さんと話をしている時間が、なんとか自分を保たせてくれていたのだと思う。

そんな中、ソーシャルワーカーさんから障害者手帳の申請の説明があった。
説明を受けるまで障害者になった自覚がなく、
「障害者か。そりゃそうやな。脚ないんやもん。」と思った。
障害者になったことについては、特にプラスの感情もマイナスの感情も起こらなかった。

退院後の生活にもちろん不安はあった。
しかし、どこまで回復するかでその形は全く違うものになるので、今は治療に集中することしかできない、と思っていた。

また、その頃、連絡は取れない状況だったので、心配をかけている人達に自分の言葉を伝えたくて、思いを込めてmixiに日記を書いた。
ちょうど事故から2週間が経っていた。
日記タイトルは大好きな映画、ターミネーターから自分の思いにぴったりな言葉を選んだ。

(以下原文)
=========================
タイトル:I’ll be back。

先週月曜日の深夜、JR福島駅のホームから転落し、電車にひかれる事故に遭いました。 


死んでもおかしくないぐらいの事故で、その結果俺は左脚を失うことになりました。 


今はそれからずっと入院中で、退院の目処はたってない状況です。 


まず、今回の事故で家族、職場の人、そして大切な仲間達に大変な心配をお掛けしてしまったことをお詫びします。 


今回の事で、本当に沢山の人の優しさに包まれて生きていることを実感できました。自分は守られて生きているんだと実感しました。 
こんなにたくさんの人の温かい想いに包まれて。 
今、俺は自信を持って言えます。 


あんな事故に遭って不運やったけど、決して俺は不幸じゃないって。 


失った左脚は戻らないけど、みんなの支えがあれば、みんなの笑顔があれば、俺は生きていける。 
脚の一本ぐらいなくたって今までより高く飛んでやる。 


今はみんなの笑顔に会えることを何よりも楽しみにしています。早くみんなに会いたいよ。 


P.S.今は救急の病棟にいるから面会NGなんやけど、一般の病棟に移れたら遊びにきてください。 
あと、入院中やから各種レスが遅いのはご勘弁を。


サムズで再会できる日がいつか来ることを願いつつ…。 


俺は必ず戻るから!


mixiやってなくて日記見れない人たちには、じゅんぺーがこんなこと言ってたって伝えてもらえると嬉しいです。
========================

本心だったが、強がっていたのかも知れない。
しかし、自分自身が日記に書いた言葉が、自分を奮い立たせ、その後の入院生活で前に進む力になったのだと思う。

そして年末が近付いてきた。

右脚は回復に向かっていて、植皮の手術ができる状態になりつつあった。
しかし、感染の程度を示す数値は高いまま下がらなくなっていた。
それが原因となりこの後、大きな決断を迫られることになった。

(続く)

切断〜復帰経過:まとめ

←その1:事故、切断 その3:股関節離断→