鉄道弘済会で目標となる形を見せてもらい、リハビリには一層身が入るようになった。
しかし、イメージした動きは簡単にはできず、試行錯誤する日々が続いた。
それでも次第に屋外での歩行訓練も増え、歩ける距離も延びていった。
リハビリだけでなく外に出ることも社会復帰に向けて必要と思っていたので、折に触れて外出許可を取って外に出ていた。
まだ義足で外には出れなかったので、松葉杖で。
そんな姿を見て、看護師さんから言われた。
「怖くないんですか?」
無理をしていると心配してくれていたのだろう。
「怖いですよ。でも怖いことを怖いままにしておくのが嫌なんです」と答えた。
外に出ることは怖かった。
目的地まで行けるのか、無事帰って来れるのか、いつも怖かった。
でも、やってみないと怖いことは怖いままになる。
できればそれは自信になるし、ダメならできる方法を考えればいいと思っていた。
そうして思い切って外に出てみると、それなりに苦労することはあったが、本当にどうしようもない事態に陥ったことはなく、それが一つ一つの自信に繋がり、不安を克服していったのだと思う。
リハビリはさらに進み、片手杖ならかなり歩けるようになり、日常生活できるレベルに近付いていた。
通常なら、退院を考える段階にきていた。
しかしそこまできた時、壁に突き当たった。
どうしても杖無しで歩くことができない。
杖を離した途端、屋内でもバランスが取れずに歩くことはできなかった。
ましてや屋外で杖無しで歩けるには程遠かった。
リハビリ科の部長さんにそのことを相談した。
部長さんには「股義足を診た症例が少ないし、あなたが目指すレベルまで指導できるか自信がない」と言われた。
人によってはこの言葉は無責任と感じるものかも知れない。
しかしその部長さんの言葉は、患者のことを考えてくれているからこその誠実なものだと思った。
病院としてのプライドもあるだろう。
それを差し置いて、患者が求めるものを提供できるか自信がないと率直に答えてくれた。
部長さんには、別の選択肢を考えるきっかけを頂いたと感謝している。
このやり取りを経て、症例を多く見ている鉄道弘済会でリハビリをしたいと思うようになった。
一方、なんとか日常生活でやっていけるレベルには近付いていて、早く仕事復帰をしたいという思いもあり、退院して日常生活の中で向上していくという選択肢も考えられた。
リハビリを続けるか、早く復帰することを優先するか。
この2つの選択肢の中で迷った。
人に相談することがほとんどなく、自分で決めることがほとんどだが、この時は社会人として、人間としても尊敬している兄に相談した。
「兄ちゃんならどうする?」と。
兄は、「一生を左右することだからリハビリを続けた方がいい」と言ってくれた。
この言葉で決心した。
会社には復帰が遅れることを了承してもらい、鉄道弘済会に移ってリハビリを続けると。
そう決心してから、転院に向けての手続きを進めていった。
病院にも「多くの症例を診ているところで診てもらいたい」と説明して送り出してもらった。
仮義足も急いで完成まで仕上げて頂いた。
大阪府立・急性期医療センターの先生、PTさん、義肢装具士さん、スタッフの方々には本当に感謝している。
義足に関して全くのゼロだった状態から、日常生活ができる程まで能力を高めてくれた。
この病院に出会えたことは運が良かったと心から思う。
また、転院に向けて鉄道弘済会での診察も受け、
「見せてもらったレベルに自分はまだ達していない。そこを目指してリハビリを診てもらいたい」と希望を伝えた。
そして、5月の約3週間の予定で入所が決まった。
東京に転院するにあたり、前の病院(大阪市立総合医療センター)の診察も受けにいった。
2ヶ月前、退院する時に予告したとおりに義足で歩いて。
命を救ってくれ、最も苦しい時期を支えてくれた方々に、義足で歩く姿を見て欲しかった。
主治医の先生は「ほんまに歩いてきたね」と喜んでくれ、「東京行っておいで」と送り出して頂いた。
その他スタッフの方々も義足で歩く姿を見て驚き、喜んでくれた。
そうして、2つの病院への感謝を胸に東京に移ることになった。
また新しい環境に飛び込み、さらに高いレベルで歩けるようになる期待でいっぱいだった。
(続く)
切断〜復帰経過:まとめ
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