傷は問題ないぐらいにまで回復し、義足のリハビリをする転院先の病院探しが始まった。
そのうちの一つ、大阪市内にある病院。
診察には「電車で行きたい」と言った。
事故に遭ってからまだ一度も電車には乗っていない。
その瞬間の記憶も残っていない。
ひょっとしたら記憶の奥底にある事故の記憶が蘇るかも知れない。
恐怖を感じるかも知れない。
そう思ったが、電車に乗ることは日常生活では不可欠。
乗り越えなくてはならないことなので、早く確認したかった。
無理なら無理で、対策を考えればいいと思っていた。
結局、その不安は取り越し苦労だった。
何も感じなかった。
松葉杖で乗る初めての電車はやはり不安定でエスカレーターもどう乗っていいのか、よくわからなかったが、慣れればなんとかなると思った。
自分にとって、電車には乗れると確認できたことは大きな収穫だった。
また、診察では先生は「歩ける」という感触を持っているように感じた。
後で聞くと「(症状的に)めっちゃ歩ける人やん」と思ったらしい。
もう一つの病院は、血液検査の結果で治療が終わっていないと判断され、受け容れることはできないとのことだった。
結局選択肢はなく、2月末に大阪市内の病院への転院が決まった。
今思えば、結果的にこの病院に決まったことは当時の自分にとって最良の道だったように思う。
ここから、転院に向けての準備を進めていった。
また、この頃あった大きな出来事。
友人の友人が自分と全く同じ、左股関節離断で直接会って話をしてもらえることになった。
義足のこともよくわかっていなくて、復帰後の生活の想像がつかなかった自分にとって、衝撃でもあり多くの刺激を受けた。
彼女は自分にそれを伝えようとしてくれていると感じた。
とても大事な、自分にとって大きなことを教えてくれた。
この出会いが今後、新しい世界に脚を踏み出す勇気ときっかけを与えてくれた。
そして、退院の日。
お世話になった先生、PTさん、看護師さん、ソーシャルワーカーの皆さんに「次は歩いて戻ってきます」と宣言した。
この病院、大阪市立総合医療センターは命を救われた場所であり、左脚を失った場所。
最も辛い時間を過ごし、新しい希望を見つけ、第二の人生がスタートした場所。
様々な感情が入り交じったが、この病院で過ごした二か月半のことは一生忘れない。
そして退院するにあたり、病院、そしてお世話になった方々に感謝の気持ちでいっぱいだった。
「ありがとう」
この感謝の気持ちを胸に、次の病院へと移った。
転院先では義足を作って歩行訓練と大怪我を負った健足のリハビリ。
新しい自分の脚に出会えること、そして自分の脚で歩けるようになること。
その期待と希望でいっぱいだった。
(続く)
コメント
毎回、次の記事の掲載を楽しみに読ませていただいています。
僕の方は、最近週一回の外来リハ(鉄弘)に通っていて、もうすぐT字杖一本で歩けるようになるか!?というところです。僕と同じ股義足の女性、両足大腿義足の方など、入院でずっと頑張っている方がいます。
やはり健足の強さが重要ですね。義足を履いているとき、歩くのはいいのですが、座っているとすぐに坐骨の後ろ側のところがすごく痛くなるのですが、何がいけないんでしょうね。最初からなので、ソケットが合わなくなってきているということでもないような気がしているのですが…
こんにちは!
ありがとうございます。
もうすぐ一本杖なんて、早いですね〜
順調なようで良かったです↑
木曜日調整で行きますよ〜
順調と言っていいのかどうか・・・PTのU先生からは、いろいろと挑戦的な課題を出されるのですが、僕が怖がって躊躇しているような状況です。途中までは順調に登ってきた山ですが頂上までのあと一息が長いです。
木曜日は残念ながらまた受診できないんですよ(>_<) また日にちが合えばいろいろとアドバイスお願いしますm(__)m